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声の予算(Vocal Budget)— 練習負荷を科学的に管理する視点
1. 桜田の現場から見る「声の過剰使用」 プロ志望の方にとって、連日の本番を声を嗄らさず乗りきることは最大の目標です。しかし、楽器奏者と異なり、声には練習しすぎのリスクがあります。 実際、私の生徒で声帯結節を2度手術した方がいましたが、長時間の練習が癖になり、気づけば1日10時間練習していると。これは明らかなるオーバーユースであり、即座にスケジュールを見直す必要がありました。 2. 声の予算(Vocal Budget)とは? 声も筋肉と粘膜から成る組織です。過負荷を「出費」、休息や水分を「貯蓄」ととらえ、どれだけ“使える声”を保てるかを管理するのが 声の予算です。 3. 科学的裏づけ:声のドーズ(Vocal Dose)研究 指標 説明 Phonation Time Dose 総発声時間の累積 Cycle Dose 周波数 × 発声時間 →「総振動回数」(歩数計の総歩数に相当) Distance Dose SPL(音圧レベル)などから推定した振幅 × サイクル →「声帯移動総距離」(歩数… 続きはこちら≫
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歌手に多い「筋緊張性発声障害(MTD)」とは?
まずは定義から 筋緊張性発声障害(MTD)は、声帯やその周囲に器質的な異常がないのに、喉頭内外の筋肉が過度に緊張し、発声が非効率になる機能性音声障害です。 特徴的な所見としては、喉頭の挙上、仮声帯の過剰な内転、喉頭の前後圧縮などが見られます。 歌手の場合、これに伴って ・声が出しづらい ・息漏れやかすれ ・声が不安定になる ・レンジの一部が使えなくなる といった症状が出ます。 歌手に発声障害が多い理由 メタアナリシスによると、歌手の自己申告ベースで約46%が何らかの音声トラブルを経験しており、その主要な診断の一つが発声障害(MTD)です。 ジャンルを問わず起こり得ますが、特に高負荷の歌唱(ミュージカル、ポップスなど)や、長時間のリハーサル・公演スケジュールを抱える歌手でリスクが高まります。 誤診と見落としの課題 MTDは器質的な病変がないため、一般的な耳鼻咽喉科の診察(話声だけの評価)では見逃されることがあります。 専門施設でのストロボスコピーや(声帯の動きをスローで観察できる機器)歌唱課題を含む評価によって初めて診断されるケースも少なくありませ… 続きはこちら≫
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サーカム・ラリンジャル― 声を不自由解放するための科学と実践
はじめに 歌手や歌手志望の方にとって「声の出しにくさ」や「喉の詰まり感」は日常的な課題かもしれません。 高音に差し掛かると喉が固まる、長時間の稽古後に声が重たくなる、発声時に無意識に力んでしまう…。 こうした状態の背景には、筋緊張性発声障害(MTD) や、代償的な発声パターンの習慣化が隠れていることがあります。 この問題に対して注目されているのが、サーカム・ラリンジャル・マッサージ(Circumlaryngeal Massage, CLM)、通称ボーカルマッサージです。 サーカム・ラリンジャル・マッサージとは? サーカム・ラリンジャル・マッサージは、喉頭や舌骨周囲の外喉頭筋を手技で緩める方法です。 Aronson(1990)によって臨床的に整理され、その後「筋緊張性発声障害(MTD)」の治療や、歌手の声のコンディショニングに用いられるようになりました。 主な目的 ・甲状舌骨筋や舌骨上筋群の過緊張を緩和する ・喉頭の高位化や固定化を解除し、可動性を回復させる ・代償的に作られた発声習慣をリセットする ・発声訓練の前準備として、神経‐筋ネットワークを“リ… 続きはこちら≫
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ボーカルマッサージと発声訓練 ― 職業歌手に必要な“緊張解除”と“運動学習”の二段構え
はじめに 歌手にとって「声の調子が悪い」「高音が引っかかる」「長時間歌うと喉が重く感じる」といった感覚は、決して珍しいものではありません。 その背景には、単なる疲労だけではなく、筋緊張性発声障害(MTD) や、無意識に身につけてしまった 代償的な発声パターンが隠れている事があります。 リハーサルや公演を重ねるほどに、喉周りの筋肉は「歌うための支え」ではなく「過剰な緊張」を積み上げてしまうことがあります。 ここで注目されているのが、ボーカルマッサージと発声訓練を組み合わせた二段構えのアプローチです。 1. ボーカルマッサージがもたらす効果と限界 ボーカルマッサージ=即効性がある、これは多くの歌手が体感するところです。 研究でも、ボーカルマッサージを施した直後にジッター(音の高さの震え)やシマー(音量振幅の不安定性)が減少。 HNR(ハーモニック・ノイズ比)が改善(よりツヤのある声になる) といった音響的改善が確認されています(Rezaee Rad et al., 2018)。 しかし重要なのは、基本周波数(F0=話声位)は変わらない という事実です。 2… 続きはこちら≫
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クラシックからベルト唱法への移行とリスク
クラシック発声を基盤として訓練を積んできた女性歌手が、ミュージカルやポップス(CCM)に挑戦する際に直面する大きな課題のひとつが「ベルト唱法」への適応です。 クラシックの声区操作や共鳴戦略をそのまま用いてベルトを試みると、過剰な声門閉鎖・喉頭挙上・喉周囲筋の緊張を伴い、筋緊張性発声障害(MTD)に発展する危険性があります。 これは臨床的にもよく見られる問題であり、ジャンル移行が単なる「スタイルの違い」ではなく、生理学的にまったく異なる発声パターンへの再学習を要する複雑な課題であることを示しています。 桜田ヒロキ考察 桜田ヒロキは、クラシックの声区制御をそのまま残してベルトを試みる女性歌手を多く見てきました。 多くの場合、喉頭を無理に押し上げてしまう「代償パターン」が身体に染みつき、喉頭全体の過緊張に繋がります。 特に女性のクラシック発声とベルト発声の違いは、甲状被裂筋(TA)の介入の度合いにあります。 ベルトでは TA の介入によって声門閉鎖率(CQ)が上昇し、声区チェンジの位置自体が高く設定されます。 しかし、TA の関与が弱いまま「地声的な音色」を作ろうとす… 続きはこちら≫
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変声期を迎えた少年歌手の発声障害の例
子役の変声期に直面する現場から 変声期を迎えるミュージカルの子役のトレーニングを担当することがあります。 子役はストーリー上とても重要な役を任されることが多く、舞台では高い歌唱力が求められます。 しかし、思春期にあたる彼らは精神的にも不安定になりやすく、本人も親御さんも非常に苦労されます。 男子の変声期では、しばしば「この美しい高音を残したい」と本人・親御さんの双方が強く望みます。 しかし実際には変声期は子供の声から大人の声へ切り替わる時期であり、本来であれば低音化して成熟した声質に適応していく必要があります。 ところが「少年の声を残したい」という願望のままトレーニングを続けると、かえって発声障害に陥ることがあります。 [caption id="attachment_1743" align="aligncenter" width="170"][/caption] 以下に紹介するのは、アメリカで報告された事例のひとつです。 ケーススタディ 背景 ・変声期前からボーイソプラノとして活動し、裏声(falsetto/頭声)を多用していた。 ・変声期に入り… 続きはこちら≫
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ツアー中に発声障害に罹患した歌手のリカバリー法は?(第3話)
- 2025.08.17
- ボイストレーナーのお仕事 加齢による声の変化 声の健康法 歌手の発声障害
前回まで、アメリカで実際に起きた発声障害と、そのリカバリーのプロセスを紹介してきました。最終回となる今回は、現場で役立つ具体的なアドバイスをまとめてみます。 インイヤーモニターの設計術 ステージでの歌唱に大きく影響するのが、イヤモニの音作りです。 多くのアーティストは「自分の声をしっかり返して欲しい」とリクエストしますが、逆に声が大きく聞こえすぎると、発声がぶれてしまうこともあります。 実際、桜田のクライアントの中には「声を少し引っ込める設定」に変えたことでリハから本番まで安定するようになった方がいます。 注意したいのは、モニターエンジニアが聴いている音と、歌手本人が聴いている音は同じではないという点です。 アーティスト歌っている時、常に「自分の生声」も聴いており、さらに生声はイヤモニの音に干渉します。 そのため、エンジニアの調整だけで完結せず、本人の感覚とのすり合わせが不可欠です。 「サンドイッチ練習」で声を軽く保つ 本番直前におすすめなのが「サンドイッチ練習」。 SOVT(ストロー発声など)→歌唱→SOVTという流れで行い、軽やかな発声感覚を思い… 続きはこちら≫
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ツアー中に発声障害に罹患したロック歌手のケース(第2話)
前回は、ツアー中に代償的な発声が固定化してしまったロック歌手のケースを紹介しました。 今回は、実際に行われた治療とトレーニングのプロセス、そして本人がどのように感じたのかを見ていきます。 初期の対応 最初の段階で大切なのは「声をすぐにリセットして良い状態に持って行く事」です。 歌手はステージを止めることが難しいため、短時間で効果を感じられる介入が優先されました。 ・喉頭マニュアルセラピー:首や喉周囲の筋肉を直接ほぐし、過剰な緊張を緩める マニュアルセラピーについては詳しくはこちら ・ストロー発声(SOVT):声帯への負担を減らし、効率的な振動を取り戻す ・インイヤーモニターの調整:声を無理に張り上げなくても聞こえる環境を整える 歌手はこの段階で「喉の締め付けが少し和らいだ」「高音が少し楽に出る」と語っており、即効性のある変化に大きな安心感を覚えていました。 中期のトレーニング 次のステップは、代償的な発声を少しずつ置き換える作業です。 レゾナント系発声(響きを強化する):軽く響きを伴った声を思い出す → 言語聴覚士がよく行う「レゾナント… 続きはこちら≫
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ツアー中に発声障害に罹患したロック歌手のケース(第1話)
アーティストは非常に過酷な環境で歌唱を要求されています。 特に売れている時期や、売り出し時期には、一般の仕事に例えるなら「ブラック企業に勤めている状況で歌うことを求められる」ようなものです。 休息が不十分なままステージが続き、さらにメディア露出や移動も重なることで、声は常に限界ギリギリに追い込まれます。 今回は3編に渡って、アメリカで実際に発声障害に陥ったアーティストの診断からリカバリーまでを追ってみようと思います。 ロックバンドのメインボーカル ・全国ツアー中、連日90〜120分のステージ ・サウンドチェック、移動、インタビューで休息不足 ・インイヤーモニターの返りが不十分で、つい声を張ってしまう このような状況は、ツアーでは珍しいことではありません。限られたリハーサル時間や会場ごとの音響の違いが積み重なり、どうしても負担が増してしまうのです。 発症経緯 ・初週のステージから声枯れが出始める ・高音部を無理に押し出すような発声が増える ・苦しい発声を繰り返すうちに「代償的な発声」が固定化 ・声が出にくい → さらに力む → さらに悪化、という悪循… 続きはこちら≫
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声の病気と代償的な発声のケーススタディ
〜手術とリハビリから学ぶ歌手への警鐘〜 声帯ポリープや結節といった病変は、歌手にとって避けて通れないリスクのひとつです。 声を多く使うプロ・ボイス・ユーザーは常に怪我や不調とのリスクと戦っています。 声帯結節などが出来た場合、「手術をすればすぐに声が戻る」と思われがちですが、実際の現場ではそう単純ではありません。 術後に残る「代償的な発声」 桜田がVocologyの中で受けたクラスの中で紹介された症例では、 声帯ポリープを二度手術で取り除いたにもかかわらず、声は依然として低く、息漏れが強く、声量も戻りませんでした。 原因は、長期間にわたり 病変を抱えた声帯に合わせて作られた発声習慣(代償的な発声) です。 ポリープや結節がある状態で歌い続けると、 ・喉の奥で力んで声門を強く押し閉じる。 ・逆に声門を十分に閉じられず、息漏れで補う といったパターンが「その人の声の出し方」として固定されます。 手術で病変を除去しても、この癖が残れば自然な発声には戻れません。 桜田の現場で起きたこと 桜田のクライアントの中にも、代償的な発声の影響で 地声が… 続きはこちら≫