失敗を味方につける歌の練習・ボイストレーニング

第3話:エラーと変動 ― 歌唱スキルを支える揺らぎの科学

前回のお話しでは「効率的なスキル定着の方法について」書きました。
歌の練習において「ミスを減らしたい」「安定した声を出したい」という欲求は自然なものです。
しかし、ボイストレーニングの観点から見ると、エラー(誤り)や変動(variability)は単なる「邪魔」ではなく、学習を進めるうえで欠かせない要素です。むしろ、これらを適切に経験し、活用することが、長期的で再現性のある歌唱スキルの獲得に直結します。


エラー(誤り)の役割 ― 失敗は情報である

古典的な運動学習理論(Adams, 1971; Schmidt, 1975)では、エラーは学習の副産物ではなく、学習を駆動する主要因とされています。

人間は動作を行うとき、脳内で予測モデルを生成します。実際の結果と予測との差異が「エラー」として検出されると、その情報を用いて次回以降の動作を修正します。これを error-based learning(誤り駆動学習) と呼びます(Krakauer & Mazzoni, 2011)。

歌唱においても同様で、「今の音程は外れた」「高い声がうまく出なかった」という経験は、次の発声戦略を導くための貴重なデータです。むしろエラーを経験しない練習は、適応のチャンスを失っているとも言えるのです。

ボイストレーナーが注意すべきは、エラーを「NGの対象」にするのではなく「分析材料」として扱うことです。エラーを恐れさせる環境では学習者は探索を避け、短期的な安定は得られても長期的な成長が阻害されます。


変動(variability)の役割 ― 揺らぎが柔軟性を生む

運動には必ず変動が伴います。発声における空気圧、声帯の振動、共鳴腔の調整はいずれも完全に同一には再現できません。これは「生理的ノイズ」として嫌われがちですが、学習の観点では重要な探索要因です。

Newell & Corcos (1993) や Sternad (2018) は「変動は探索(exploration)のために必要であり、学習初期には特に重要」と述べています。Wu et al. (2014, Nature Neuroscience) も、試行間変動が大きな学習者の方が、スキル獲得が速く、かつ長期保持が安定していることを報告しました。

ビブラートにおける変動の例

歌唱で顕著に表れるのがビブラートです。ビブラートのクオリティは基本的には
– ピッチの変化幅
– 音量の変化幅
– 一貫性

によって決まりますが、これらは機械的に揺れ続けているわけではなく、人間的な揺らぎが存在します。

あまりに一貫性が高いと、かつてのボーカロイドのように人工的で冷たい印象を与えます。逆に一貫性が低すぎると、技術不足で未熟に聴こえます。つまり「適度な変動」が豊かな表現力と自然さを生むのです。

不快音と変動の関係

心理音響学では、人間が特に不快と感じる音の一つが「爪で黒板や曇りガラスをこする音」とされています。興味深いのは、その周波数成分自体は楽器音に近い場合があるにも関わらず、我々はそれを強い嫌悪感とともに聴きます。

理由の一つは、その音が「一貫性に欠け、いつ発生するか予測できない揺らぎ」を含んでいるためです(Halpern et al., 1986; Reuter & Oehler, 2011)。つまり、人間は「予測できる変動」には快感や安心感を覚える一方で、「予測できない変動」には不快感や警戒を覚えるのです。

歌唱においても、過度に不規則なピッチやリズムの揺れは「不安定」「耳障り」と評価される一方、適度に予測可能な揺らぎは「温かみ」「人間らしさ」として好意的に受け止められます。こうした視点をボイストレーニングに取り入れることは、歌手の表現力を大きく伸ばす鍵となります。


歌唱への応用 ― エラーと変動を練習に組み込む

実践面でのポイントは、練習を「成功だけを積み重ねる場」と捉えず、意図的にエラーや変動を引き出す仕組みを作ることです。

1. エラーを活かす練習

エラーを単なる失敗ではなく、修正の材料に変えるためのステップは以下の通りです。

録音する
練習中の歌唱を録音し、後から自分の声を確認します。

音程が外れた箇所を特定する
客観的に聴き直すことで、歌っている最中には気づかなかったズレを発見できます。

外れた音程のフレーズを再現する
あえて外れた状態を再現し、「どこで崩れるのか」を身体的に把握します。

正しい音程で歌ったフレーズと比較する
2つを歌い比べることで、身体感覚と聴覚の両面から「正しい条件」と「誤った条件」の違いを学習します。

このプロセスを繰り返すことで、学習者はピッチコントロールを「聴覚的にも身体的にも」理解しやすくなり、エラーを恐れるのではなく修正の糧にできるようになります。これはボイストレーニングにおける重要な学習プロセスです。

2. 変動を与える練習

– テンポを変える(速く・遅く)。
– キーを上下に移動させる。
– メロディを(フェイクのように)少し変化させる。
– 別の伴奏環境(スタジオ・ホール・小部屋)で歌う。

これにより、音響環境や身体感覚の違いを経験し、「どんな状況でも普遍的に再現できる声」を習得できます。ボイストレーナーはこうした課題を適切に設計することで、生徒の応用力を大きく伸ばせます。

3. ボイストレーナーの役割

ボイストレーニングの現場では、指導者が「エラーを許容する雰囲気」をつくることが特に重要です。学習者が恐れずに探索できる環境を提供することこそが、最終的に柔軟で適応力のある声を育てます。ボイストレーナー自身がこの視点を持つことで、科学的に裏付けられた効果的なレッスンを提供できるのです。


まとめ

エラーは学習の材料である
変動は不安定さではなく適応力を育てる要素である
適度な揺らぎが人間らしさと表現力を生む

ボイストレーニングにおいて、完璧さを追求するだけでは応用力が育ちません。エラーや変動を許容し、むしろ積極的に活用する設計が、長期的で再現性の高い歌唱スキルを支えます。これは歌手にとっても、指導するボイストレーナーにとっても極めて重要な視点です。

次回(第4話)では「モチベーションと学習環境」に注目し、フィードバックや達成感が歌唱習得にどう影響するかを掘り下げます。

練習とフォーカスの科学 ― 効率的なスキル定着
歌手の学習方法を学ぼう!― 基礎理論とフィードバック
ボーカルフライの効能とリスク

歌声の機能回復を目的としたボイストレーニング・発声調整はこちらをどうぞ

この記事を書いた人

桜田ヒロキ
桜田ヒロキ
米国Speech Level Singingにてアジア圏最高位レベル3.5(最高レベル5)を取得。2008〜2013年は教育管理ディレクターとして北アジアを統括。日本人唯一のインストラクターとしてデイブ・ストラウド氏(元SLS CEO)主宰のロサンゼルス合宿に抜擢。韓国ソウルやプサンでもセミナーを開催し、国際的に活動。
科学的根拠を重視し、英国Voice Care Centreでボーカルマッサージライセンスを取得。2022–2024年にニューヨーク大学Certificate in Vocology修了、Vocologistの資格を取得。
日本では「ハリウッド式ボイストレーニング」を提唱。科学と現場経験を融合させた独自メソッド。年間2,500回以上、延べ40,000回超のレッスン実績。指導した声は2,000名以上。
倖田來未、EXILE TRIBE、w-inds.などの全国ツアー帯同。舞台『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』主演・岩本照のトレーニング担当。
歌手の発声障害からの復帰支援。医療専門家との連携による、健康と芸術性を両立させるトレーニング。

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