第5話:女性歌手と月経周期——周期で“効くウォームアップ”が変わる理由
「生理前になると高音が詰まる」「声が重くてピッチが当たりづらい」「何となく声の反応が鈍い」
女性歌手であれば、誰もが一度はそんな経験をしているのではないでしょうか。
ウォーミングアップをしても「いつものように声がでない」日がある。それを“体調の波”として片づけてしまうことも多いですが、実際にはそこに明確な生理学的根拠があります。
女性の身体は、エストロゲン(卵胞ホルモン)とプロゲステロン(黄体ホルモン)の周期的な変動によって、水分バランス、血流、筋の反応速度、そして声帯の粘膜構造までも変化させています。
この章では、月経周期における声の変化を科学的に整理し、それに合わせてウォーミングアップの順序・内容・強度を変えるための具体的なアプローチを提案します。

なぜ「いつものウォームアップ」が効かない日があるのか
多くの女性歌手が感じる“声の波”は、ホルモンによる声帯の変化が主な原因です。Abitbolら(1989〜1999)は、女性歌手の声帯を内視鏡で観察し、月経周期の中で声帯の血管透過性と粘膜の厚みが変化することを報告しました。
特に排卵期から黄体期にかけては、プロゲステロンが上昇し、声帯粘膜に水分が溜まりやすくなる。結果として声帯がわずかに膨張し、振動の自由度が低下するのです。
この状態で通常のウォームアップを行うと、声帯への物理的負担が大きくなります。
高音が詰まる、声が押し出し気味になる、共鳴が硬く感じる——これらは単なる発声の問題ではなく、ホルモンによる粘膜の変化による現象です。
ホルモンと声帯の科学
エストロゲンとプロゲステロンは、声帯に直接作用することがわかっています。
エストロゲン(卵胞ホルモン)
粘膜の水分保持・弾力性維持・血管拡張を促進し、声帯の柔軟性を高める。
排卵期前後で上昇し、声が明るく、軽くなる傾向がある。
プロゲステロン(黄体ホルモン)
水分を組織内に保持し、血管透過性を高めるため、声帯がやや浮腫む。
生理前に上昇し、声が重く、やや詰まりやすくなる。
この2つのホルモンがバランスよく作用している卵胞期には、声帯のコンディションが最も良い。 しかし、排卵期と黄体期には、声帯が「柔らかすぎる」または「浮腫んで硬い」状態になりやすいのです。
Bakerら(2011, Journal of Voice)は、女性歌手を対象に周期ごとの声帯波動を測定し、排卵期では粘膜波動が減弱し、高音発声時に微小な息漏れが生じることを報告しました。一方で黄体期では、粘膜波動が硬化傾向を示し、声が閉じやすくなる。
つまり、周期によって「ウォームアップが効きやすい日」「効きにくい日」が存在するのです。
周期別の発声傾向とトラブル(現場観察に基づく)

桜田が現場で観察している範囲では、周期による声の変化は非常に繊細で、明確な“異常”というよりは「声の反応の違い」として現れます。
最も多く聞かれるのは、月経期に声が重く感じる、ピッチが下がりがちになるという訴えです。いわゆる“声の立ち上がりが遅い”感覚で、ウォームアップをしても響きが前に出にくい。これは、月経期に起こる一時的な血流の低下と、筋反応の鈍化によるものと考えられます。
また、声が重く感じる日は、共鳴を整える課題よりも、ハミングやリップトリルなどで体の循環を促すウォームアップの方が効果的です。
それ以外の周期(卵胞期・排卵期・黄体期)では、特に顕著な発声トラブルは報告されていません。ただし、日によって声の“軽さ”や“詰まり”が微妙に変わるため、ウォームアップの強度を固定せず、「声の立ち上がりを確認しながら段階的に進める」ことが推奨されます。
周期別ウォームアップ戦略
周期ごとに「何を最初にするか」を変えるだけで、声帯への負担が大きく減ります。
| 周期フェーズ | 身体・声帯の特徴 | 主なトラブル傾向 | おすすめウォームアップ順序 | 目的・狙い |
|---|---|---|---|---|
| 卵胞期(生理直後〜排卵前) | ホルモンバランスが安定し、粘膜波・筋反応が良好 | 特になし。声が軽く、過緩になりやすい場合も | 軽い閉鎖→SOVT→母音課題 | 安定した声の基礎づくり。高音域を軽くチェック |
| 排卵期 | エストロゲン上昇で血管透過性が高まり、声帯が柔らかい | 息漏れ、声が軽すぎてフォーカスがぼける | 軽い閉鎖→母音→レゾナント発声 | 声門閉鎖の安定と音像の集中 |
| 黄体期(排卵後〜生理前) | プロゲステロン上昇によりむくみや粘膜浮腫が出やすい | 声が詰まる、高音が出づらい、喉の圧迫感 | 水分補給→スチーム→ハミング→レゾナント | 浮腫軽減と粘膜潤滑。声帯負荷を減らす |
| 月経期 | 体温低下・血流減少で声帯反応が鈍くなる | 立ち上がりが遅い、喉が重い、息が浅い | 呼吸伸展→リップトリル→低音ハミング | 代謝促進と筋・呼吸系の再活性化 |
上記の表は、声帯と体調の変化を4つのフェーズに分け、それぞれに最適なウォームアップ順序を示しています。
難しい理屈を覚える必要はなく、「今日はどの状態に近いか?」を感じ取りながら使うのがコツです。
ケーススタディ:周期と声の“ズレ”
ある女性ミュージカル俳優は、毎月生理前の数日間に「声が重く、ピッチがやや下がる」という傾向を感じていました。通常どおりのウォームアップをしても喉が硬く感じ、声が前に抜けない。
この時期に桜田が提案したのは、ウォームアップをSOVTエクササイズ中心に切り替えてもらいました。ストロー発声やハミングを使い、声を整えるのではなく、体のリズムを戻すことを優先。 その結果、喉の詰まり感が減り、翌日の声の立ち上がりも早くなりました。
また、別の女性シンガーは、月経中に「声が少し低くなる」ことを自覚していました。この変化を受け入れ、ウォームアップを「裏声発声中心+息の流れ重視」に変更したところ、高音が出にくい期間でも無理なく歌えるようになったそうです。
トレーナー視点での指導ポイント
ボイストレーナーや指導者にとって重要なのは、「声が出にくい=単純な努力不足や体調不良」と捉えないことです。
声の反応が悪い日には、必ず生理的な要因の可能性もあります。女性歌手の声を守るためには、ウォームアップの内容だけでなく、周期を前提にした“練習設計”が欠かせません。
桜田がVTチームで実践しているのは、レッスン前に「睡眠・水分・周期(おおよそでOK)」をヒアリングし、その日のウォームアップ順序をカスタマイズする方法です。これにより、声の立ち上がり時間の短縮に成功する事が多くなりました。
自分の声と周期を知る
女性歌手にとって、周期を「不安定要素」ではなく「指標」として扱うことが、長期的な声の安定につながります。
おすすめは、簡単な記録を取ることです。
「今日の周期」「ウォームアップにかかった時間」「声の軽さ(1〜10)」をメモするだけで、数ヶ月後には自分の声のリズムが見えてきます。
「この週は重くなりやすいから軽めに」「この週は声が軽いからベルティング練習に対応しやすい!」 そうした自己観察が、結果的に声を守ります。
いかがでしたか?
月経周期による声の変化は、避けることも否定することもできません。しかし、それを理解して活かすことはできます。
声が重く感じる日は、SOVTから始める。
反応が鈍い日は、軽いハミングで体を整える。
その日の声に“合わせる”ことが、最も効果的なウォームアップです。
ウォーミングアップとは、ある意味では身体と声の“対話”とも言えると思います。そして女性の身体は、月ごとにその答え方を少しずつ変えています。周期を知り、それに合わせて声を整えること。それがプロフェッショナルとしての新しいセルフマネジメントです。
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この記事を書いた人

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米国Speech Level Singingにてアジア圏最高位レベル3.5(最高レベル5)を取得。2008〜2013年は教育管理ディレクターとして北アジアを統括。日本人唯一のインストラクターとしてデイブ・ストラウド氏(元SLS CEO)主宰のロサンゼルス合宿に抜擢。韓国ソウルやプサンでもセミナーを開催し、国際的に活動。
科学的根拠を重視し、英国Voice Care Centreでボーカルマッサージライセンスを取得。2022–2024年にニューヨーク大学Certificate in Vocology修了、Vocologistの資格を取得。
日本では「ハリウッド式ボイストレーニング」を提唱。科学と現場経験を融合させた独自メソッド。年間2,500回以上、延べ40,000回超のレッスン実績。指導した声は2,000名以上。
倖田來未、EXILE TRIBE、w-inds.などの全国ツアー帯同。舞台『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』主演・岩本照のトレーニング担当。
歌手の発声障害からの復帰支援。医療専門家との連携による、健康と芸術性を両立させるトレーニング。
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