歌手の機能性発声障害 第6話:心因性要素・歌手のイップスと発声障害

第6話:心因性要素・歌手のイップスと発声障害

「リハーサルでは普通に歌えるのに、本番で急に声が詰まってしまう」
「マイクの前に立つと、喉が固まって息もれの声しか出なくなる」

こうした声の不調を訴える歌手や声優は少なくありません。検査では異常が見つからず、日常会話では問題なく声を出せるのに、ステージや収録といった特定の環境でだけ症状が現れる。この現象は、スポーツや楽器演奏で知られる「イップス(yips)」と非常に似ています。

本稿では、イップスの定義と研究を整理し、歌手に特有の「声のイップス」について掘り下げていきます。さらに、治療法がまだ確立していない現状の中で、スポーツや音楽領域の研究から応用できるヒントを検討します。

1. イップスとは何か?

イップス(yips)は、もともとゴルフのパット動作で知られる現象で、技術的には可能な動作が心理的プレッシャーや神経的要因によって阻害されるものです。手が震える、痙攣する、動作が固まるなど、特定のタスクで制御不能な運動が起こります。

Smithら(2003)の研究によれば、ゴルファーの2〜5%がイップスを経験しているとされ、原因は心理的要因(不安・緊張・完璧主義)神経学的要因(局所性ジストニア)の両方にまたがると報告されています。

Dystonia Foundationはイップスを「タスク特異的な局所性ジストニア」とみなし、筋肉の不随意収縮によって意図した動作が妨げられる現象と説明しています。つまり、イップスは単なる「気のせい」ではなく、心理と神経の両面が絡む複合的な現象だと考えられています。

2. 音楽家・演奏家のイップス

イップスの概念は音楽演奏領域にも広がり、ピアニストやヴァイオリニストのように高度な動作制御を必要とする演奏家に発症することが知られています。これは演奏ジストニア(musician’s dystonia)とも呼ばれ、特定の指や手の動きが意図通りにコントロールできなくなる現象です。

Altenmüller & Jabusch(2010)は、音楽家の局所性ジストニアにおいて心理的ストレスや完璧主義傾向が発症要因と深く関与していることを報告しました。また「Classification of the Yips Phenomenon based on Musician’s Dystonia」(2018)は、ジストニア性要素と心理要素の両方を含めた分類モデルを提示し、イップスを単一の現象ではなくスペクトラムとして理解する必要性を強調しています。

演奏ジストニアは一度発症すると自然回復が難しく、運動再学習や心理的支援が必要になります。これは、歌手の「声のイップス」を理解する上で非常に参考になる視点です。

3. 声のイップス:歌手・声優に見られる現象

歌手や声優の中には、「マイクの前に立つと声が詰まる」と訴える人がいます。検査では器質的異常はなく、日常会話も問題ない。それでも、特定の環境や本番のプレッシャーで声が制御できなくなる。これは心因性発声障害(psychogenic voice disorder)の一形態であり、イップスに近い現象と考えられます。

実際に、桜田のクライアントの歌手はスタジオのコンデンサーマイク前に立つと喉が固まる感覚を覚え、まともに声が出せなくなりました。そこでハンドマイクの電源を切った状態から慣れる練習を行い、その次に小さな音で声をスピーカーから出すなどを行い発声するステップに進みました。最終的には、スタジオの大型コンデンサーマイクでも対応できるようになりました。

このケースが示すのは、研究がまだ未発達な分野では、予測と経験に基づいた段階的アプローチが有効であるということです。

4. イップスに対する研究と治療アプローチ

現在、イップスに対する確立した治療法は存在しません。しかし、スポーツや音楽分野の研究から応用できるヒントはいくつもあります。

心理的アプローチ
– 認知行動療法(CBT):失敗への恐怖や思考パターンを修正する。

– メンタルトレーニング:呼吸法、マインドフルネス、イメージトレーニング。
→特にマインドフルネス(瞑想)やヨガは脳に影響を与え、症状を緩和させると最近ではボイスケアの一環として取り組まれています。

– 暴露療法:試合や舞台環境を段階的に再現して慣れる。

神経学的アプローチ
– ボツリヌス毒素注射(ボトックス):局所性ジストニア的な筋緊張を和らげる。
– 脳の可塑性研究:運動制御の再構築を促す試み。

運動制御リハビリ
最も歌唱に応用しやすいのが運動制御リハビリです。これはスポーツ選手が誤ったフォームを一度「分解」し、新しい運動パターンを段階的に再学習する方法です。

歌唱においても、誤った発声パターンを分解し、正しい発声を再学習する必要があります。例えば高音で過剰に力んでしまう歌手に対して、単純なスケール練習から始め、呼気と声門閉鎖のバランスを少しずつ修正していく。このプロセスは、ゴルファーがパットフォームを修正する方法と極めて似ています。

言い換えれば、ボイストレーニングは「歌唱における運動制御リハビリ」であり、イップスの改善における中心的役割を担うと考えられます。

薬物療法
– βブロッカー(不安の軽減)。
– 抗不安薬や抗うつ薬(補助的に用いられるが根本治療ではない)。

5. 研究の示唆

Nature誌(2021)の研究では、イップスを持つアスリートにおいて感覚運動皮質の脳活動が変調していることが報告されています。これはイップスが単なる心理現象ではなく、神経制御の問題を含むことを示しています。

またVan Stanら(2023)は、加速度センサーを用いて日常環境での軽度音声誤用(phonotrauma)を検出する研究を行いました。これは歌手の「声のイップス」が日常環境では現れにくく、本番や特殊な状況でのみ表出する特徴と重ね合わせて理解できます。

6. まとめ

– 歌手のイップスは「本番特有の心因性発声障害」として理解できる。
– 器質的な異常がなく、心理的プレッシャーや環境要因によって声が詰まる現象。
– 治療法はまだ確立していないが、スポーツや音楽領域の研究から応用可能なアプローチは多い。
– 特に運動制御リハビリは歌唱において誤った発声パターンを再学習する方法と重なり、ボイストレーニングの重要性を裏づけている。
– 未発達な分野であるからこそ、研究知見と現場の経験を組み合わせて取り組む必要がある。

歌手や声優の声のイップスは、まだ学術的に十分解明されていないテーマです。しかし、スポーツや音楽領域の知見を応用することで、少しずつアプローチの糸口が見えてきています。声の専門家としては、従来の発声理論に加え、心理学・神経科学の視点を取り入れることが、今後の大きな課題となるでしょう。

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この記事を書いた人

桜田ヒロキ
桜田ヒロキ
米国Speech Level Singingにてアジア圏最高位レベル3.5(最高レベル5)を取得。2008〜2013年は教育管理ディレクターとして北アジアを統括。日本人唯一のインストラクターとしてデイブ・ストラウド氏(元SLS CEO)主宰のロサンゼルス合宿に抜擢。韓国ソウルやプサンでもセミナーを開催し、国際的に活動。
科学的根拠を重視し、英国Voice Care Centreでボーカルマッサージライセンスを取得。2022–2024年にニューヨーク大学Certificate in Vocology修了、Vocologistの資格を取得。
日本では「ハリウッド式ボイストレーニング」を提唱。科学と現場経験を融合させた独自メソッド。年間2,500回以上、延べ40,000回超のレッスン実績。指導した声は2,000名以上。
倖田來未、EXILE TRIBE、w-inds.などの全国ツアー帯同。舞台『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』主演・岩本照のトレーニング担当。
歌手の発声障害からの復帰支援。医療専門家との連携による、健康と芸術性を両立させるトレーニング。

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