なぜ「アーティストの声」は魅力的なのか?- 母音で読み解く「良い歌声」の秘密

なぜアーティスト声は魅力的なのか?

良い歌声とそうでもない歌声はどこに差があるのでしょう?
同じ「あ〜」と歌っているはずなのに、歌声は人によってまったく違って聞こえますよね?
楽譜も歌詞も同じ、音程も同じ。それでも、アーティストの声を聴いた瞬間に「あ、この人の歌声だ」と分かることがあります。
一方で、「音は合っているのに、なぜか上手く聴こえない」と感じる歌もあります。

この違いは、どうやら感覚や好みの問題だけではないようです。
音声学や歌唱研究の視点から整理していくと、その大きな要因の一つが「母音の扱われ方」にあることが見えてきます。
母音は、僕たちが思っている以上に幅が広く、そして歌唱においては極めて重要な役割を果たしています。

「あ」母音は一つではない── 声道(共鳴腔)が変われば、無数の「あ」が生まれる


一般的に、日本語の母音は「あ・い・う・え・お」の5つだと教えられます。しかし、音響的に見ると、「あ」という母音は決して一つの固定された音ではありません。

母音の音色は、声帯で生まれた音が声道を通ることで形成されます。
この声道の形は、喉頭の位置、舌の前後・上下の位置、顎の開き方、軟口蓋の挙上、咽頭の広さなど、複数の要素の組み合わせによって決まります。これらが少しでも変われば、同じ「あ」と発音しているつもりでも、音響的には別の母音になります。

つまり、「あ」という母音は一点ではなく、非常に広い範囲を持つ連続体として存在しているのです。同じ「あ」というカテゴリの中に、実際には何十、何百通りもの「あ」が存在すると考える方が自然です。
クリス・ハートさんは「『あ』の発声には200種類(のバリエーション)がある」と言っていた事あったそうですが、研究と一致しそうですね!

音声学の研究でも、同一の母音カテゴリに属する音であっても、話者間でフォルマント周波数(F1・F2)が大きく異なることは古くから示されています。母音は「正解が一つの音」ではなく、「一定の範囲を許容する音響的カテゴリ」なのです。

【研究】
Peterson & Barney(1952)は、英語母音の大規模測定において、「同じ母音として知覚される音であっても、フォルマント周波数は話者ごとに大きく異なる」ことを示しています。これは、母音の音響特性が個体ごとに大きく変動することを意味します。

Hillenbrand ら(1995)もまた、F1–F2 空間上で母音カテゴリが大きく重なり合って分布していることを示し、母音のばらつきが話者間で非常に大きいことを報告しています。

Sundberg(1977)は、歌声の音色は主に声道の共鳴特性によって決定されると述べており、声道形状の違いがそのまま音色の違いになることを明確にしています。

日本語の「あ」と英語の /ʌ・ɑ・æ/ は、音響的には全く違う

この「母音は幅を持つ」という話を、より具体的に理解するために、日本語の「あ」と英語の低母音を比較してみます。

英語には、日本語話者の耳にはすべて「あ」に聞こえる母音が複数存在します。代表的なのが、/ʌ/(strut)、/ɑ/(father)、/æ/(cat)です。日本語話者にとっては、これらはすべて「低い母音=あ系」に聞こえます。しかし、音響的に見ると、これらは明確に異なる母音です。

研究データをもとにした成人男性話声の目安として、それぞれのフォルマント周波数を整理すると次のようになります。

/ʌ/(strut)
F1:約600〜750 Hz
F2:約1200〜1500 Hz
→日本人には「深みのあるあ母音」と感じられると思います。(桜田)

/ɑ/(father)
F1:約650〜800 Hz
F2:約1000〜1200 Hz
→日本人には「平均的な開口のあ母音」と感じられると思います。(桜田)

/æ/(cat
F1:約700〜900 Hz
F2:約1600〜1800 Hz
→日本人には「鋭いあ母音」と感じられると思います。(桜田)

ここで注目すべき点は、F1はいずれも低母音帯にあり大きな差がない一方で、F2が大きく異なっていることです。/æ/ と /ɑ/ では、F2 に 600〜800 Hz 以上の差が生じます。

これは、声道の設計がまったく異なることを意味します。
つまり、日本語話者の耳にはすべて「あ」に聞こえていても、音響的には「明るい前寄りのあ」「太く後ろ寄りのあ」「その中間のあ」といった、まったく別の響きが存在しているのです。日本語の「あ」母音は、これらすべてを内包する非常に広いカテゴリだと言えます。

例として今回は「あ」母音を取り上げましたが、母音と音色の使い分けは他の母音でも同様に行われています。アーティストやミュージシャンは、このような「母音のカラー」「母音のキャラクター」を巧みに使い分けることで、自分らしい声色やオリジナリティを作り出しているのです。

【研究】
Peterson & Barney(1952)は、/ɑ/ と /æ/ の違いは主に第2フォルマントの違いによるものであり、舌の前後位置の差を反映していると述べています。

Hillenbrand ら(1995)も、/æ/ は /ɑ/ に比べて著しく高い F2 を持ち、前舌母音として明確に区別されることを示しています。
Ladefoged & Broadbent(1957)は、母音知覚は話者の声道特性を基準に正規化されると述べており、異なる音響特性を持つ母音が同一カテゴリとして知覚される理由を説明しています。

歌唱では「どのあ」を選ぶかが声色になる

この違いは、歌唱において特に重要になります。
歌唱では母音の持続時間が長く、共鳴がはっきりと露出します。そのため、どのフォルマント構造の「あ」を選んでいるかが、そのまま声色として聴き手に伝わります。

実際の歌唱では、無意識あるいは意図的に、これらの「あ」が使い分けられています。詳しくは歌を歌うのに母音ってなんで重要なの?をご覧下さい。
高音域では /ʌ/ に近い響きが安定しやすく、太さや重さを出したい場面では /ɑ/ に近い響きが選ばれることがあります。明るさや抜け感を強調したい場合には、/æ/ に近い響きが使われることもあります。

【研究】
Fant(1960)は、母音の音響特性は声道の共鳴特性によって直接的に決定されると述べています。

Sundberg(1987)は、第2フォルマントが高い母音ほど明るい音色として知覚されやすいことを示しており、フォルマント位置と音色印象の関係を明確にしています。

人間は「同じ母音」と「違う声」を同時に聴き分けている

では、なぜ私たちは「同じあ」だと感じながらも、「声が違う」と分かるのでしょうか。

人間の聴覚は、母音をカテゴリとして認識します。
「これは [あ] だ」と大まかに分類しながら、同時にフォルマント構造の微妙な違いを手がかりに、「誰の声か」「どんな声色か」を判断しています。

【研究補強(原文に基づく内容)】
Johnson(2005)は、聞き手が話者ごとの声道長や特性を補正しながら母音を知覚していることを示し、これを「話者正規化」と呼んでいます。

Kreiman & Sidtis(2011)は、声の個人性は安定したスペクトル特性、特にフォルマント構造と強く結びついていると述べています。

「あの人の歌声だ」と分かる理由── 声の個性は母音に乗っている

歌声を聴いた瞬間に「誰の歌声か」と分かるとき、私たちは音程やリズムを細かく分析しているわけではありません。多くの場合、最初に判断材料になるのは、声の響き、つまり声色です。

歌唱では音符の大部分を母音が占めるため、声の個人性を運ぶ情報の多くは母音に集中します。声の個性とは、突き詰めると「どの母音を、どの共鳴で、どれだけ安定して鳴らし続けられるか」という問題だと言えます。

【研究補強(原文に基づく内容)】
Sundberg(1994)は、歌唱において母音が音色と声質の伝達において支配的な役割を果たすと述べています。

Mürbe ら(2004)は、熟練した歌手ほど音高が変化しても母音の一貫性を保つ傾向があることを報告しています。

Oren Brown の言う “Primal Sound” とは?/h2>
ジュリアード音楽院で教鞭を執った Oren Brown は、「Primal Sound」という概念を重視していました。
これは、訓練やテクニック以前に存在する、その人固有の自然で無理のない声の核を指す言葉です。

科学的な用語ではありませんが、この概念は音声科学と非常に相性が良いものです。音響的に言い換えるなら、それは「その人固有の母音・共鳴パターン」と考えることができます。

この「Primal Sound」と言う概念は現在の桜田のボイストレーニングの方法論にも大きく影響を与えたと思います。
ボイストレーナーはクライアントの根本的な音色を引き出す事が必要で、それがその方のアーティスト性を表す大きな強みになるからです。

プロとアマの違いは「母音の再現性」にある

プロ歌手は、音域が変わっても、音量が変わっても、母音の芯が大きく崩れません。声色が統一されており、聴き手は迷わずその声を聴くことができます。

一方で、歌が上手く聴こえないと認識されてしまうケースでは、母音、ここでは声色的な意味を含む母音に対する認識が非常に曖昧なことが多く見られます。

本人は同じ「あ」を歌っているつもりでも、喉頭の位置、舌の位置、顎の開き方、咽頭の使い方がフレーズごと、音域ごとに無意識に変化してしまいます。その結果、歪んだ母音が連続的に現れます。

聴いている側からすると、これは様々な声色をランダムに聞かされている状態に近くなります。その中には偶然きれいに聞こえる瞬間も含まれますが、不安定で濁った声色も多く含まれます。どの声色を基準に聴けば良いのか分からなくなり、結果として「上手い」「心地よい」という評価に結びつきにくくなります。

具体的には桜田はこの動画のように「伸ばした母音を何度でも打ち込み直す意識で」と歌わせる事で声道を無意識に変化させてしまう事を回避させます。

【研究】
Titze(2000)は、声道形状を安定して保つことが、音色の安定と効率的な発声に寄与すると述べています。

母音を整えるとは、「声のアイデンティティ」を引き出すこと

母音は、単なる発音ではありません。声の設計図であり、声色の基盤だと思います。
歌唱において母音を整えるということは、声色を整え、自分の声のアイデンティティを確立することと同義です。

「あの人の歌声だ」と認識されることは、母音を安定して再現し続けられている証拠でもあります。
歌声を良くするための最短距離は、派手なテクニックを追い求めることだけではなく、自分の母音を理解し、丁寧に整えていくことにあります。

歌を歌うのに母音ってなんで重要なの?

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この記事を書いた人

桜田ヒロキ
桜田ヒロキ
米国Speech Level Singingにてアジア圏最高位レベル3.5(最高レベル5)を取得。2008〜2013年は教育管理ディレクターとして北アジアを統括。日本人唯一のインストラクターとしてデイブ・ストラウド氏(元SLS CEO)主宰のロサンゼルス合宿に抜擢。韓国ソウルやプサンでもセミナーを開催し、国際的に活動。
科学的根拠を重視し、英国Voice Care Centreでボーカルマッサージライセンスを取得。2022–2024年にニューヨーク大学Certificate in Vocology修了、Vocologistの資格を取得。
日本では「ハリウッド式ボイストレーニング」を提唱。科学と現場経験を融合させた独自メソッド。年間2,500回以上、延べ40,000回超のレッスン実績。指導した声は2,000名以上。
倖田來未、EXILE TRIBE、w-inds.などの全国ツアー帯同。舞台『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』主演・岩本照のトレーニング担当。
歌手の発声障害からの復帰支援。医療専門家との連携による、健康と芸術性を両立させるトレーニング。

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