歌唱において母音が中心的役割を果たす理由
── 発話と歌唱の音響構造を比較しながら考える「良い声」の正体
歌声を聴いたとき、「この人は良い声をしている」と感じる場面は多くあります。
人は専門的な知識がなくても、歌声の魅力を直感的に判断でしています。
よく桜田は良い声、そうではない声はプロが聴くまでもないと言っています。
しかし、その“良い声”を構成している具体的な要素については、感覚で語られることが多く、科学的な裏付けが十分に共有されていない場合もあります。
音声学や歌唱における音声科学の研究を踏まえて整理していくと、歌声の印象に最も大きな影響を持つのは母音であるという構造が見えてきます。音程、強弱、ビブラート、リズム、フレーズ感など、歌唱を形づくるさまざまな要素はもちろん重要ですが、その根底にある音色(tone)を決定しているのは母音であり、母音の質が歌声全体の魅力を大きく左右しています。
歌唱における母音の役割を理解するためには、発話と歌唱の音響的な違い、さらに言語ごとの特徴やジャンルごとのスタイルを整理していく必要があります。本ブログでは、これらを専門的な観点からまとめながら、歌手にとって実践的に役立つ形で「母音がなぜ重要なのか」を解説していきます。

1. 発話と歌唱の音響構造の違い
── 母音が歌唱の中心になる理由
発話と歌唱は、同じ声を用いているにもかかわらず、目的や構造が大きく異なります。
発話は情報伝達が目的であり、言葉の意味を正しく伝えるために、母音と子音が短い時間スパンで高速に切り替わります。情報を多く伝達するためです。発話の母音は比較的短く、60〜180 ms(0.006~0.018秒) 程度の長さで語の構造を支えています。
一方で歌唱では、音高(ピッチ)、音価(音符の長さ)、音色(tone)を持続的に提示する必要があります。
破裂音や摩擦音など多くの子音は声帯振動を乱しやすく、共鳴も不安定になりやすい特徴があります。そのため、音符を保持する役割を担うのは必然的に母音となります。歌唱では音声の大部分が母音で構成され、母音の質が歌声全体の響きを決定づけます。
この構造上の違いが、母音の duration(持続時間)の差として明確に現れます。歌唱では発話の数倍以上、母音が長く保持されます。ここに「歌声の印象の多くが母音で決まる」という理由があるのです。
ですので、歌唱における「良い声を出せるようにする」という課題は、日本語の歌唱においては、美しい「あ・い・う・え・お」の5母音を広い音域にわたって習得することだと言えると思います。歌唱の音域は発話の比ではないくらい広いので、一言で言う以上に難しいと思います。
2. 日本語における歌唱と発話の母音の持続時間
── 4〜7倍に増幅される母音の役割
日本語はモーラ(拍)を単位とする言語であり、発話時の母音は比較的短く均質です。(海外の方に「日本語ってどんな風に聞こえるの?」と質問したら「マシンガンみたいにダダダダダ」ってしゃべるよねって言っていた事があります。)Donna Erickson(2002, 2010)の研究によれば、日本語発話の母音 duration はおよそ80〜150 msの範囲に収まります。
しかし歌唱になると、母音の duration は400〜900 msに達します。フレーズの最後の伸ばす母音では1000 ms(1秒)以上に伸びることも珍しくありません。これは発話に比べて4〜7倍以上の増加です。
日本語は母音が5つとシンプルであるため、母音の質の違いが音色に直接反映されやすい構造を持っています。歌唱時に「声が明るい」「響きがある」「芯が通る」といった印象が生まれる背景には、この母音の保持時間と共鳴の形成が密接に関係しています。
特に日本語話者は母音の変化に敏感であり、母音が正確かつ滑らかに保持されている歌唱ほど、「声が良い」と知覚されやすいと考えられます。
3. 英語における母音 duration の特徴
── 子音が多くても、歌唱では母音が支配的になる
英語は破裂音・摩擦音が多く、弱化母音(schwa)が頻出するため、発話における母音 duration は比較的短いのが特徴です。Patel(2008)や Sundberg(1977)などの研究を総合すると、次のように整理できます。
発話の母音 duration:60〜120 ms
歌唱の母音 duration:300〜1500 ms
英語歌唱では、母音が発話の5〜10倍に延びることが確認されています。英語圏では語尾の母音を意図的に落とすスタイルもありますが、それでも音符を保持する中心的な役割を果たすのは母音です。
強い子音が特徴の CCM やミュージカルのスタイルでも、音色の基盤は母音によって支えられています。つまり、どれほど子音が強調される歌唱であっても、音響的には母音が声の印象を支配する構造に変わりはありません。
4. イタリア語と母音 duration
── 発話から歌唱まで母音が長く、歌唱と相性の良い言語
イタリア語は歌唱と非常に相性が良い言語として知られています。その理由の一つは、母音の明瞭さと持続性にあります。Scotto di Carlo(2007)や Stark(1999)などの研究によると、イタリア語における母音 duration は次のように報告されています。
発話の母音 duration:100〜180 ms
歌唱の母音 duration:600〜2000 ms 以上
イタリア語の母音は発話の段階から比較的長く、構造的に開放されている特徴があります。歌唱になると母音はさらに5〜10倍以上に延び、声道共鳴が非常に安定します。
イタリア語母音は F1-F2 の距離が大きく、フォルマント構造が明瞭であるため、歌唱時の声道調整(vowel modification)にも適応しやすいという利点があります。これがクラシック歌唱におけるイタリア語の優位性を支えていると言えます。
5. 発話・CCM・クラシックの比較
── いずれのジャンルでも母音が中心的役割を果たす
歌唱ジャンルによって音色の方向性は変わりますが、母音が音色の中核を担っている点は共通しています。
5-1. 発話
母音 duration:60〜150 ms
子音との高速切り替えによって意味を形成
音色よりも情報伝達が優先される
5-2. CCM(ポップス・R&B・ミュージカル)
CCM はリズムとアタックが重要視され、子音の明瞭さがスタイルを決定づけることも多いです。しかし、音符を保持するのは母音であり、その duration は200〜800 msに達します。
Björkner(2008)の研究では、ベルト発声においても音色の中心的役割を果たすのは母音であることが示されています。つまり、子音の強調が特徴となるジャンルでも、最終的に声の印象を決めているのは母音です。
5-3. クラシック(声楽・オペラ)
クラシック歌唱ではレガートが基本で、母音 duration は500〜3000 msと最も長くなります。Mürbe et al.(2004)の研究では、高音域における母音保持の増加と声道調整の重要性が指摘されています。
クラシックでは音色を純化することが求められるため、母音の質が歌唱全体の響きを決定づけます。母音の正確さ・持続性・共鳴の方向性がそのまま音色の評価につながるジャンルです。
6. 母音が音色を決める音響学的背景
── 声道の形と声帯振動
母音は声帯振動を最も安定して伝え、声道形状を一定に保つ音韻です。声色(tone)は声道の形によって決まりますが、この形は母音の種類によって規定されます。そのため、母音の質が音色に直接反映され、歌唱の印象を大きく左右します。
子音は閉鎖・破裂・摩擦などが含まれ、持続音としての条件を満たしにくいため、音色形成への寄与は限定的です。結果として、歌唱における音色の基盤は母音に集中します。
母音が安定している歌手は、声道形状が一定で共鳴が整っているため、聴き手に「響きが良い」「太い」「抜けが良い」といった印象を与えやすくなります。
7. 結論:歌声の魅力は母音の質に依存する!
発話と歌唱における母音 duration の違い、言語差、ジャンル差、声道共鳴の構造を総合すると、母音が歌声の中心に位置する理由が明確になります。
歌唱では母音が発話の4〜10倍以上に延びる
母音は声帯振動・声道共鳴を最も安定して伝える
声色(tone)は母音によって直接規定される
聴覚的に知覚される「良い声」の印象の多くは母音が担っている
したがって、歌声を改善するための最も効果的なアプローチは、母音の質を上げることです。母音が滑らかに連なり、安定した声道形状を保てるようになると、音色が統一され、音程も安定し、フレーズの流れも自然になります。
母音を理解し、意図的にコントロールできるようになることは、歌唱技術を体系的に向上させるための中心的なプロセスであり、全ての歌手にとって基盤となるスキルだと言えます。
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参考文献
Sundberg, J. (1977). The Acoustics of the Singing Voice.
Sundberg, J. (1994, 2000). Singing and Speech Acoustics.
Erickson, D. (2002, 2010). Articulation in Japanese Singing.
Scotto di Carlo, M. (2007). Italian vowels in classical singing.
Stark, J. (1999, 2008). Bel加入
この記事を書いた人

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米国Speech Level Singingにてアジア圏最高位レベル3.5(最高レベル5)を取得。2008〜2013年は教育管理ディレクターとして北アジアを統括。日本人唯一のインストラクターとしてデイブ・ストラウド氏(元SLS CEO)主宰のロサンゼルス合宿に抜擢。韓国ソウルやプサンでもセミナーを開催し、国際的に活動。
科学的根拠を重視し、英国Voice Care Centreでボーカルマッサージライセンスを取得。2022–2024年にニューヨーク大学Certificate in Vocology修了、Vocologistの資格を取得。
日本では「ハリウッド式ボイストレーニング」を提唱。科学と現場経験を融合させた独自メソッド。年間2,500回以上、延べ40,000回超のレッスン実績。指導した声は2,000名以上。
倖田來未、EXILE TRIBE、w-inds.などの全国ツアー帯同。舞台『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』主演・岩本照のトレーニング担当。
歌手の発声障害からの復帰支援。医療専門家との連携による、健康と芸術性を両立させるトレーニング。
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