第6話:声門閉鎖と声帯疲労 ― 強すぎても弱すぎても起こるリスク
歌手や俳優にとって、声帯の疲労(vocal fatigue)は日常的な問題です。
「高音を繰り返した後に声が出にくくなる」「リハーサルの翌日は声が重く感じる」といった経験は、多くの現場で共有されています。
一般的には「閉鎖が強すぎる=押し声が疲れの原因」と認識されがちですが、実はその逆、「閉鎖が弱い状態」でも疲労は起こります。
つまり、声門閉鎖が強すぎても弱すぎても声帯疲労を引き起こすリスクがあるということです。
本記事では、この二方向のリスクを研究と実践の両面から整理し、ボイストレーニングの現場でどう活かせるかを考えます。
声帯疲労とは何か
声帯疲労(vocal fatigue)は、Hunter & Titze(2009)によると「声の産出効率が低下し、努力感や違和感を伴う状態」と定義されます。
これは単なる「疲れた感じ」ではなく、実際に声帯組織や内喉頭筋が負荷を受け、回復に時間がかかる生理的現象です。
Hunter & Titze は発声負荷後の回復を測定し、90%の回復に4〜6時間、完全回復には12〜18時間を要することを報告しました。
つまり、声を酷使すると筋肉トレーニングと同じように「休養が必要になる」ということです。
強すぎる閉鎖がもたらす疲労
強い閉鎖=Pressed voice は、最もわかりやすい疲労の原因です。
・ 過剰な声門下圧
声帯を強く閉じることで必要以上に大きな空気圧が生じ、声帯の衝突強度が増す。
・ 組織の微損傷
振動による摩擦が大きく、粘膜に微細な損傷や浮腫を生じやすい。
・ 代償的な筋緊張
体幹・頸部の筋肉まで動員され、全身的な疲労感につながる。
結果として、声が「硬い」「つまる」といった質感になり、持続時間も短くなります。
弱すぎる閉鎖がもたらす疲労
あまり知られていませんが、閉鎖が弱い状態=Breathy voice も疲労を引き起こします。
Zhang et al.(2021)は、不十分な声帯近接が「弱い励起 (weak excitation)」をもたらし、振動効率を低下させることを示しました。
その結果、以下のような疲労が起こります。
・ 効率の低下
呼気エネルギーが無駄に逃げるため、同じ音量を出すのに必要な息の量が増える。
・ 代償筋の過活動
閉鎖不足を補おうと、周囲の筋(TA, LCA, 補助筋)が過剰に働き続ける。
・ 代謝ストレスの増加
微調整を強いられた筋が持久力的に消耗し、疲労物質が蓄積する。
・ 組織ストレス
声帯が十分に接触しない状態で摩耗するため、結節や炎症のリスクが上がる。
このように、「押しすぎても疲れる」「息っぽくても疲れる」という二重のリスクが存在するのです。
実際に桜田のレッスンでも、「歌うと非常に喉、首が疲れる」と訴えるクライアントで、声門閉鎖が著しく弱い場合に限り、声門閉鎖を促すエクササイズを行うと疲労感や努力性発声が緩和すると言う例は多くあります。
また、あるモノマネアーティストのレッスンで「軽やかな平井堅さんのモノマネで高音域がきつい。自分の声でしっかり目にだした方が楽に感じる」と言う事もありました。
しっかり目に出している時の方がもちろん声門閉鎖は強いのですが、芯のある声でこちらの方が楽と言うのがとても腑に落ちるように感じました。
客観的な計測と声門閉鎖
・ H1–H2
値が高い=息っぽい、値が低すぎる=押し声傾向。
・ CPP(Cepstral Peak Prominence)
声の明瞭度・周期性を示し、疲労で低下する。
・ HNR(Harmonics-to-Noise Ratio)
値が低いと雑音成分が増え、疲れた声の印象につながる。
・ EGG(Electroglottography)
声門閉鎖率(Contact Quotient)を計測し、強すぎる/弱すぎる閉鎖を定量化できる。
Berardi et al.(2025)は「声の疲労を被験者ごとにモデル化し、タイプ別に分類できる可能性」を示しており、将来的には「疲労のパターンごとに異なるトレーニングを設計する」ことも可能になるかもしれません。
これはかなり画期的な手法になるかもしれませんね!
ボイストレーニング現場での工夫
ボイストレーニングの現場では、この二重のリスクを意識してトレーニングを組む必要があります。
息っぽい声(閉鎖不足)の改善タスク
・ エッジーハミング
・ SOVT(ストロー発声など)
・ ハイ・ラリンクス・エクササイズ(軽く閉じやすい位置で声を作る)
・あ母音など強母音を使って音圧レベル(SPL)を上昇させ、甲状被裂筋の活動を促す
押し声(閉鎖過剰)の改善タスク
・ 子音 F や H を利用して閉鎖を弱める練習
・ オンセット・トレーニング(ソフトアタックから入る)
・ 共鳴位置を前方にシフトさせ、圧力を逃がす
・弱母音を使って音圧レベル(SPL)を下げ、甲状被裂筋の活動を抑制する
これらのタスクは、声門閉鎖を「適度なゾーン」に戻す作業といえます。
ボイストレーナーに求められる視点
ボイストレーナーは「強い=悪い、弱い=楽」といった単純な二分法で考えるのではなく、どちらの偏りも疲労につながることを理解しておく必要があります。
また、歌手自身も「疲れの原因は押し声だけ」と思い込んでいる場合が多いため、弱い閉鎖がもたらすリスクを啓蒙していくことが大切です。
まとめ
声門閉鎖は歌声の芯や音質を決めるだけでなく、声帯疲労の大きな要因でもあります。
・ 閉鎖が強すぎれば、過剰な衝突と筋緊張で疲労が生じる。
・ 閉鎖が弱すぎれば、効率低下と代償筋の過活動で疲労が生じる。
つまり、声帯疲労は「閉鎖の適度さ=バランス」を失ったときに起こるのです。
ボイストレーニングにおいては、このバランスを科学的に評価し、適切な練習タスクを処方することが重要です。
そしてボイストレーナーは、疲労の原因を筋緊張だけに求めず、閉鎖不足のリスクも見逃さない視点を持つ必要があります。
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この記事を書いた人

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米国Speech Level Singingにてアジア圏最高位レベル3.5(最高レベル5)を取得。2008〜2013年は教育管理ディレクターとして北アジアを統括。日本人唯一のインストラクターとしてデイブ・ストラウド氏(元SLS CEO)主宰のロサンゼルス合宿に抜擢。韓国ソウルやプサンでもセミナーを開催し、国際的に活動。
科学的根拠を重視し、英国Voice Care Centreでボーカルマッサージライセンスを取得。2022–2024年にニューヨーク大学Certificate in Vocology修了、Vocologistの資格を取得。
日本では「ハリウッド式ボイストレーニング」を提唱。科学と現場経験を融合させた独自メソッド。年間2,500回以上、延べ40,000回超のレッスン実績。指導した声は2,000名以上。
倖田來未、EXILE TRIBE、w-inds.などの全国ツアー帯同。舞台『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』主演・岩本照のトレーニング担当。
歌手の発声障害からの復帰支援。医療専門家との連携による、健康と芸術性を両立させるトレーニング。